最後に見たのは、暗い室内に張り巡らされた呪術のための結界と、歪んだ笑みを張りつけて私を見下ろす男の顔だった。
意識が闇に閉ざされ、私の意志も記憶も黒い炎が焼いていく。 炎に炙られた後に残るのは、恨み、憎しみ、負の感情のみ。 「怨鬼よ、標的は大納言の一の姫だ。行け」 男の声が命じる。 そんなことはしたくない。 そんなものになりたくないのに・・・・。 助けて。 思った瞬間、脳裏をよぎったのは、ひとつの記憶の風景。 ほのかな灯りに照らされ、熱心に手元の書に見入っていた横顔が、気配に気付いて顔を上げる。 色違いの瞳が私を認める― 浸食される自我の中で私はすがるようにその記憶にしがみついた。 白焔追想三月の眠りから目覚め、安倍泰継は久しぶりに庵の外に出た。 一通り周りを巡り、辺りの様子を確認する。 夏は過ぎ去り、北山の木々は染まっていた。 しかし、季節は変わっても、見下ろす京の街には相変わらず不穏な気がたちこめている。 あちこちで気脈が乱れ、歪みを生じる様がここからでも感じられ、泰継は眉をしかめた。 「都は相変わらずか・・・」 清めも祓いもその場しのぎ、不安に苛まれた人々の動揺が更に歪みを生んでいる。 庵の前まで戻ってきたとき、不意にざっと強い風が吹き抜けた。 重く質量を伴った風に、禍禍しい気配が混じる。 「!」 とっさに泰継は印を組み身構えたが、風がおさまったとき、そこにいたのは女房装束の若い女だった。 平伏した女の全身に、黒い鎖が巻き付いている。 そして、ゆっくりと顔をあげた女は、まだ幼げですらある容貌に、黒曜石の目をしていた。 「安倍のお方・・・」 たどたどしい細い声が、泰継を呼んだ。 まるで、言葉が不自由なもののように。 だが、泰継はその女の気配に覚えがあった。 「お前は・・・」 「お願いがございます・・・」 縋るように、女の瞳が泰継を見上げている。 「私を殺してください」 小さな声だったが、きっぱりとした響きは正確に泰継の耳に届いた。 「殺す、だと?」 「お願い、致します・・・」 「だが・・・今のお前は魂だけだ」 そう・・・私の身体は、もうない。
あの暗い部屋で、絶たれてしまった。 支配されようとしていた魂が、かろうじて術者の手を擦り抜けてここへ逃げて来たのだ。 いや、逃げるという意識すらなかった。 安倍のお方のことを、強く念じただけだった。 そして・・・逃げ切れてなど、いないのだ。 私の魂も、あの陰陽師に握られている。 この身を縛る鎖は、かの術者の支配の証。 低く唱えられる呪文が、暗く重い力が、怨嗟の声が脳内に響き意識を掻き乱す。 もうすぐに、私は意のままに操られる怨霊になってしまうだろう。 「では言い直します。私を調伏してください」 泰継の目にも鎖が刻々と女の身を締め上げ、支配していっているのが分かった。 「私は、怨霊になりたくはありません。 ・・・呪詛の道具になど・・・」 「しばし耐えろ。術者を探し出し、解除させることも出来よう」 「・・・いいえ・・・もう・・・」 搾り出すような女の声に、背を向けかけていた泰継が振り返るのと、女の目から意志の光が消え、飛びかかってくるのが同時だった。 とっさに防御した泰継の腕に、牙が突き立てられる。 女の目は風に煽られる灯火のように狂気と理性の狭間で揺らいでいた。 「どうか・・・最後の、唯ひとつの望みです・・・ あなたの手で・・・」 手を差し伸べた女の姿がぶれて、柔らかい獣の毛並み、しなやかな四肢、ふさりと揺れる尻尾が現れる。 泰継の手の中に現れたのは、まだそれほど歳経ずして、変化にも慣れない若い狐。 狂気に支配され、がちがちと鳴らされた牙を、再び泰継に突き立てることのないようにと、狐は自らの脚を噛んだ。 「・・・っ」 泰継は、狐を抱く腕に力をこめた。 「行くべきところへ行け。 望み通り、私が送ってやる」 目を伏せた泰継から、紡がれたのは押し殺した囁き声。 すっとその腕が空を指した。 それに従い、幾つもの白い炎が道標のように空へ向かって並んでいった。 「分かるな? 迷わずに行け」 そして、泰継の腕の中の狐を白い火の柱が包む。 一声高く鳴くと、狐はするりと腕から抜け出し、炎の道に身を躍らせた 白い炎が、黒い鎖を溶かし、身に詰め込まれた闇を浄化していく。
炎の中を進みながら、闇に覆い隠されていた優しい記憶が、洗うように蘇ってくるのを感じた。 満天の星、しんしんと降る雪、ひそやかに舞い散る紅葉、音もなく飛び交う蛍の光。 そんな風景の中のいつでも、彼は変わらず端然とそこに居た。 さして広くない庵の片隅を照らす、揺らめく灯り。 それに映し出される、書に目を落とした端麗な横顔。 ひそやかな獣の足音に気付くと、そっと立っていって迎え入れてくれた。 つっかえつっかえ語る自分の話を、黙って聞き、「そうか」と言ってくれる、静かな声。 そんなとき、普段は怜悧な面が微かに和らぎ、瞳に優しい光が宿る。 その表情を見るのが好きだった。 誰よりも孤独だったけれど、誰よりも優しかったあなた・・・。 「願いを叶えてくださってありがとう・・・」 密やかな声だけを残し、白い火と光のなかに、しなやかな狐の輪郭が融けて共に空へと還っていった。 寒い夜に、ひっそりと自分の傍らに寄り添っていたぬくもりを、もう二度と触れることのない生き物の温かさを思って、泰継はきつく手を握り締めた。 「眠りの訪れることのない長い夜、お前が居てくれたことで、私は・・・」 さらりと風が泰継の耳元を撫でて行った。 声なき声が、そっと紡がれて残る。 「大丈夫、もうすぐ会える・・・あなたを抱きしめてくれる人と。 そのときは、もうそこまで来ている・・・」 暗雲たちこめ、気の澱んだ都に。 風が変わり、光が空から降臨する予兆。 神子がこの地に降り立つまで、あと少しの時を要する―
CD「雪月花」のドラマを聞いていて、「道は見えるか」のセリフの優しさに、「私も霊に なりたいかも」とおばかなことを思ったのが、きっかけでできた話です。
最後に願いがひとつ叶うなら泰継さんに送ってもらいたいなあ、なんて。 それにしても、やっぱり文章を書くと、「うーんうーん」と唸っている時間ばかり多くて・・・随分と時間がかかってしまいました。 タイトルはまた適当な造語です・・・タイトルにもうんうん悩んだのですが、悩んだわりにこの程度・・・;;; 2004.2.20
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