走り続けてさすがに息が切れ、立ち止まると、ずるずると力が抜けた。 心が凍り付いて、手にも足にも力が入らない・・・。 座り込んで、ふと見るとあの碑がある場所だった。 今は並ぶ店もシャッターを降ろし、人通りも絶えている。 「悲しいことなど、忘れさせてやろうか?」 流れる水のように優しげな声が、降ってきた。 香が焚き染められた華やかな衣が、闇の中に浮き上がる。 橋姫が花梨を見下ろしていた。 しゃがみこんだ花梨の頭を撫でるように、白い繊手が伸べられる。 「永遠の泡沫の中に連れて行ってやろう・・・」 「泡沫・・・?」 差し伸べられる手が、否応なく意識を奪うなか、花梨はなんとかそれだけ口にした。 「私はここにあった橋の守り。異界との境に住まうものだから」 橋姫の声が柔らかく応えた。 泰継は、力なく部屋のドアを開けた。 いつもは質素と言えるほど物がない室内に、華やかな空気が漂っている。 花が飾られ、テーブルの上には心尽くしの料理とケーキ。 言葉もなく、室内に歩み入った泰継の視線が床に向かう。 ソファの傍に転がった、カードが添えられた包み。 泰継は、そっとカードを取り上げた。 『大好きな泰継さん、お誕生日おめでとう!』 「!」 開けてみた包みは、自分が贈った指輪と対のようなデザインのそれで。 「花梨っ・・・」 泰継は低くうめいた。 「最近お前は私を避けているのかと・・・」 自分以外の者に向けられる笑顔に嫉妬して。 「お前は、やはり同じ年頃の者と笑い合うほうが楽しいのではないかと・・・思ってしまったのだ・・・だが・・・」 一緒にはいなくとも、花梨は自分のために時間を割いてくれていたのだ。 それなのに。 泣かせてしまった。 「!?」 俯いて、指輪を握り締めていた泰継は、鋭く顔をあげた。 今では、離れていても意識を凝らせばすぐに見つけ出せる程馴染んだ輝く気が、大きくざわめいた後、掻き消えたのが伝わってきたのだ。 ざ、っと全身から血の気が引いたような気がした。 「花梨・・・」 泰継は、指輪を握り締めたまま、駆け出した。 しばらく無我夢中で走り回ってから、やっと少し冷静になって、無闇に走っても無駄だという発想が湧いた。 辺りを見回し、街路に植えられた中でも一番大きい柳の木に近づく。 「柳よ・・・無茶は承知で頼む。力を貸してくれ」 この世界では、多くの草木はもはや沈黙しているか、微弱な力しか持たない。 だから、あまり無理を強いないように、普段は話し掛けないようにしていた。 「花梨の気を辿りたい。頼めるか?」 柳が頷いたようにさわりと揺れた。 しなやかな枝が、幹に手をついた泰継をそっと抱くようにしなる。 柳が、地や風や虫たちと伝え合っている事象が映像として泰継にも流れ込んでくる。 「水の気配・・・?いや、今は水は絶えている・・・石・・・碑?」 泰継は身を起こすと、柳に礼を言って、再び走り出した。 柳が見せてくれた風景を辿って、泰継は夜の街を走っていく。 碑がある場所が見えてきたとき、そこには姫装束の女が泰継を待つように立っていた。 「花梨はどこだ」 常人なら逃げ出すような鋭い視線を受けても、橋姫は少し不快げに眉をひそめただけだった。 「おや、礼儀も知らぬのか?開口一番の言葉がそれとは」 「早く答えろ」 一方の泰継は、問答無用とばかりそれを切り捨てた。 「あの少女を取り戻したいか?」 「無論だ」 橋姫は、ぴしりと扇を泰継に突きつけた。 「あの娘はもうお前のことなど覚えていない。薄情な男のことなど、忘れるほうが幸せだろう?」 「たとえ花梨の心がどこにあろうと・・・ 彼女を守りたいという私の心は変わらない・・・」 それだけは、ずっと変わらぬ、己の心に刻まれた誓約。 泰継のまっすぐな眼差しは、今は目の前にいない愛しい少女にむけられている。 橋姫はくっと艶やかな唇に笑みを刻んだ。 「大層なことだな。―では、追って来るがよい。 ・・・出来れば、だがな」 扇をふわりと一振りする。 次の瞬間、がぼっ、と冷たい水の中に身体が投げ出された。 咄嗟のことながら、泰継は必死に体勢を整える。 水は絡みつくように重く、冷たい。 見回しても、何も見えない。 そして容赦なく体温と、呼吸を奪っていく。 (く・・・。花梨・・・っ) 霞み始める視界の中に、針の先程の光が映った。 泰継は、うまく動かない腕をなんとか持ち上げ、そちらへ向かった。 さあっと上方に光が射したかと思うと、水面に身体が浮かび出る。 急に肺に空気が流れ込んで、泰継は咳き込んだ。 しばらく大きく息を吸い込んで、落ち着いて見てみると、向こう側が霞むほど、広く長い橋がそこに存在していた。 暑くもなく、寒くもなく乾いた空気に支配されたその橋の中央に、二つの影―花梨と橋姫が立っている。 「花梨!!」 呼んでも、花梨は全く反応しない。 ただ、虚空を見つめているだけ。 「聞こえはせぬ、悲しい記憶は泡沫の中に眠らせるのだから」 橋姫が、冷たく泰継を一瞥し、花梨を袖の中に隠そうとした。 「花梨」 泰継は橋姫に構わず、花梨に手をのばす。 「無礼者!」 橋姫の叫びとともに、風がのばした腕にざくりとした傷をつくった。 それでも、自らの傷などまったく感じないかのように、泰継は花梨に近づく。 「私は―」 「下がれ」 橋姫の零下の声とともに、無数の風の刃が泰継を襲った。 「花梨・・・」 必死にのばされた腕、その銀の指輪がはまった指が、花梨の頬に掠めるように触れた刹那。 花梨の瞳が、はっと光を取り戻した。 「泰継さん!!」 白の光が小さく花梨の周りに弾けて、風を打ち消した。 崩れるように泰継が膝をつく。 「だ、大丈夫ですか」 「花梨、無事か?」 慌てて跪いて、泰継の顔を覗き込んだ花梨を、泰継はぐいと引き寄せた。 「や、泰継さん、怪我・・・」 「問題ない。お前が無事ならば・・・」 涙目になって覗き込む花梨に、泰継は微笑してみせた。 「ごめんなさい、私―」 「戻る気か?」 言いさした花梨を遮る声に振り向くと、橋姫が二人を見下ろしていた。 「戻っても、また同じことかもしれぬぞ。 人の想いは変わる」 「それでもいいです」 花梨が即答する。 「そやつがそなたのことを顧みなくなったとしてもか?」 「私、泰継さんがどんなに精一杯に私を守ってくれたか、何もかも捨ててまで一緒に来てくれたか、忘れて・・・鈍感に、傲慢になってた。 でも、私はもういっぱいいろんなものを貰ってるってこと、思い出したんです。 だから、私も少しでも返したい、って・・・。」 花梨はひとつ首を振った。 「・・・ううん、理屈はどうでもいいの。 泰継さんと一緒に居たいだけ。 泰継さんのことが、大好きなだけ」 澄んだ笑顔を浮かべて、花梨は言った。 橋姫は、瞑目した。 「そなたは、そのように言い切れるのだな・・・。 多くの者は、ここで眠ること、ここに想いを置いていくことを選んだものだが・・・。 だが、私はそなたのような答えが聞きたかったのかもしれない」 お互いに相手のために行動を起こし、そしてそれが自分の内を満たし明日に進む力になる―そんな未来を信じる答えを。 「私には未だわからぬ・・・。 そのような気持ちは持ったことがない。 私を形造るのは、恨み、焦り、自分には手に入らぬのだという諦め・・・ いつか・・・分かる日が来るだろうか・・・? そなたは、そなたたちは、この先もその心を持ち続けるだろうか・・・? ・・・見届けさせてもらおう・・・」 ひらりと、極彩色の色が翻り。 ふっと水の気配が消えた。 気がつくと、元の碑に立つ場所に戻っていた。 「ではな」 橋姫の姿は淵の中に溶けるように闇に沈んでいった。 それを同じように静かに見送っていた泰継が、花梨を腕の中から解放すると、無言で花梨の手をとった。 嵌めていた指輪をそっと抜いて、花梨の手に落とす。 「花梨・・・改めて、私にそれをくれないか? もう一度・・・。私は、まだお前からそれを受け取れるか? 是ならば・・・嵌めてくれないか?」 見詰める琥珀色の瞳が、深い色を湛えて揺れている。 花梨は、涙とともに笑みを浮かべた。 彼の長い指に、ゆっくりと銀の輪を嵌める。 「ありがとう、花梨」 「・・・っ」 花梨は泰継に抱きついた。 「遅くなったけど、お誕生日おめでとう! あなたに出会えて、嬉しい・・・」 涙が溢れて、頬を滑り落ちる。 一緒にいられるのはなんて幸運なことなのだろう。 奇跡のような、この幸福。 泰継の指が花梨の頬を滑り、涙の雫を拭った。 そっと、優しい口付けが降りてきた。 変わらないものはないかもしれない。 永遠は約束できないかもしれない。 でも、変わっていくことが、悪いことだけだとは思わない。 重ねられた想いが、絆に変わっていくことを、信じたいと・・・ それを、この人と一緒に証明したいと・・・ 積み重ねていく未来が、誓約の証になるように。 いつか貴女に、胸を張って「ほらね」と言えるように。 「日付変わっちゃったけど・・・、お誕生日のお祝いしましょうか」 「お前が祝ってくれるなら、いつでも私にとっては特別な日になる」 二人は手をつないで、家路についた。
カウンタ5000を踏んでくださった、ちゃんやすさまのリク「現代ED後シリーズで、甘々、泰継さんがやきもちを妬いたりとか」・・・お応えできてるでしょうか〜;;;
喧嘩して仲直りで花梨ちゃんから指輪のお返し、というネタを温めていたので、リクを頂いたとき、これで行こう!と思ったのですが、書くのにすごく時間がかかってしまいました。 泰継さん、ストレートに嫉妬するというよりは哀しがりそうなイメージが出来てたもので;;; そして、毎度のことながら、イメージを言葉に変換できずにもどかしく思ったり、うまく構成できなくてテーマを浮かび上がらせることが出来なかったりと・・・文章修行の旅に出たほうがよいのかもしれない^^; ちゃんやすさま、大変お待たせしたうえ、リクにお応えできたか自信がないのですが・・・よろしければお受け取りくださいませ。 リクありがとうございました! 2003.10.1
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