密やかに眠る木々の奥にから、奇妙な旋律が流れ来る。 闇の中に歌い騒ぐ者は、異形の神。 「今宵今晩このことは・・・」 「・・・知らせるな」 「知らせるな・・・」 神鎮め「泰継さん、お茶が入りましたよ」 「ああ、今行く」 書斎で地図を調べていた泰継は、リビングから掛けられた花梨の声に答えると、本を手に持ったままそちらに向かった。 「わん!」 リビングに入ってきた泰継の姿を見て、花梨の腕の中に収まった子犬がぱたぱたと尻尾を振る。 その頭を軽く撫でて、泰継はソファに座った。 「今日は駅前のお店のケーキ買ってきたんです」 花梨は子犬をソファに降ろすと、嬉しそうにチーズケーキで有名な店の菓子箱を持ち上げてみせた。 その様子を見て、自然に笑みを浮かべた泰継に、花梨が慌てて弁解する。 「あー、笑わないでよ、泰継さん! いっつも人気で売り切れてたやつ、今日は買えたんだから〜」 「笑ったわけではない、お前が楽しそうなのを見ると、自然に私も嬉しくなって笑みが浮かぶらしい」 優しい微笑とともに、さらりと言われた台詞に、未だにどぎまぎする花梨は、泰継が膝に置いた地図に目を留めると話題を逸らした。 「泰継さん、どこか行くの?」 「ああ、依頼が入った。 すまないが、この連休は留守にする。 XX高原の老舗の宿だそうだが・・・」 「へえ・・・いいなあ、今は綺麗でしょうね」 「ああ、花で有名な別荘地らしいな」 羨ましそうな顔をした花梨だったが、すぐにぱたぱたと手を振った。 「って、お仕事なんですよね。 呑気なこと言って、ごめんなさい」 「いや・・・」 花梨が喜ぶなら、連れて行ってやりたいが、仕事では何が起こるか分からない。 それでなくとも、精霊から怪しいものまでいろいろなものを惹きつけてしまう花梨を、あまり危険にさらすかもしれないところへは近づけたくない。 「泰継さんなら大丈夫だと思うけど、気をつけて行ってきてくださいね」 そう言って、小さく笑ってくれる花梨を、泰継は引き寄せ、抱き締めた。 ところが、その日帰宅した花梨が夕食の席に着くと、母が「連休の予定は?」と訊いてきた。 「連休? まだ何も入れてないけど」 「お父さんに旅行に行きたいって言ったらね、会社のツテでXX高原の宿が予約できるって」 「え!?」 (泰継さんはお仕事だし、家族旅行じゃ会う機会もないかもしれないけど・・・) 近くにいるのだと思えば、少しは会えない寂しさも、身を案じての心配も、和らぐかもしれない。 花梨が「高原、いいね、行きたい」と賛成すると、母もうきうきと計画を立て始めた。 電車を乗り継ぎ、降り立った駅前は観光地らしい賑わいを見せていたが、少し離れると森の緑が濃密な気を放っていた。 「大丈夫、シバくん」 バスケットを持ち上げて覗き込むと、子犬が元気に返事をする。 泰継が留守で、花梨も出かけてしまうとなれば、子犬を置いていくわけにいかず、両親を説得して宿にも了承を取ってもらって、連れて来た。 タクシーを拾って、花梨たちは宿に向かった。 山がすぐ傍まで迫り、懐に抱かれたような印象の日本家屋が佇んでいる。 「落ち着いてて、いい感じね」 部屋に入ってまず、庭に面した窓を開けた母親が、弾んだ声で言う。 「のんびりできそうだな」 父親は、早速座卓の前でお茶をすすり、くつろいでいる。 (泰継さんには「家族旅行で行きます」って言っといたけど・・・) 渋い顔で「絶対に無茶をするな」「怪しげなところには近づくな」とくどいほど念を押された。 ついでに、子犬にも「花梨から目を離すな」と何度も言っていた。 (会うどころじゃなさそうだなあ・・・) 多少、期待をしていただけに、がっかりしてしまう。 「花梨、お夕飯前にはこれ見に行きましょうよ」 観光案内を物色していた母が、チラシを手に声をあげる。 地味なチラシだったが、付近の神社のお祭りの案内らしい。 「うん、いいよ」 華やかな着物や、神主の狩衣に遠い異世界を思い出し、少し懐かしさにかられつつ、花梨は頷いた。 暮れ始めた山の中に、楽の音がこだまする。 背後まで迫った山に抱かれるような小さな神社は、それでも由緒がある社らしく賑わっていた。 「あら〜、可愛いわねえ。 花梨の七五三のときも、あんな着物だったわよ」 宿でのんびりする、という父を置いて、花梨は母と祭り見物に来ていた。 犬はまずいかも、とは思ったものの、大人しい子犬はぬいぐるみと見紛うほど静かに花梨の腕に抱かれている。 舞台の中央でちょこんと座っている、赤い振袖の幼い少女を見て、花梨の母は相好を崩す。 舞とお神楽が奉納され、灯火の灯りを映すきらびやかな衣装に目を奪われていた花梨は、ふと舞殿の向こう側、関係者らしき人間たちの中に見慣れた翠の髪が混じっているのを見つけた。 (泰継さん?) 向こうも、花梨を認め、かすかに目を見張った。 「ちょっとここにいてね」 母に耳打ちすると、花梨は見物人の間を縫って、泰継のほうへ向かった。 「花梨」 「泰継さん、お仕事ってここのことだったんですか?」 「ああ・・・。 この社で怪しげなことが起こるという」 「怪しげな?」 「ああ、この社は近々遷座するそうだ。 そこで、いろいろと作業の準備のために人が入ったが・・・不気味や歌や、影を見た者が多いとか」 声を低めて、そう説明した泰継は、渋い顔になった。 「だから、お前は母御と共に早く帰れ」 それが、自分を心配してのことだとは分かっているし、泰継の物言いにも慣れていたが、せっかく遠出の先で会えたものをと、花梨は少しばかりがっくりした。 そのとき、辺りの木々が風もないのに大きくざわめいた。 ぴくりと目を眇めた泰継の腕が翻る。 泰継が放った符は、舞台中央にいた少女を狙った矢を音高く弾いた。 「ここにいろ!」 言い置いて、泰継は舞殿の上に飛び上がる。 背後の暗い木々の中から、しゃがれた声が響いた。 「邪魔をするな。 その娘は我の贄だ」 「残念ながら、そういうわけにはゆかぬ」 「神を蔑ろにするか!」 「お前が神だと?」 冷たい声で返した泰継目掛けて、森の中から黒い礫が襲い掛かった。 削られた鋭い枝を、術で叩き落しながら泰継は少しずつ移動する。 そのままでは後ろにかばっていた少女が危険だからだ。 うー、とまだ幼く、威圧というには頼りないような声で唸りながら、子犬が少女の前に出る。 「早く、こっちに」 子犬の後を追って舞殿に駆け寄った花梨が、少女を腕の中に抱き取る声を背後に感じながら、泰継は暗い森の中を睨んでいた。 「その娘はわしの御供の印をつけている、白羽を」 しゃがれた、胃の腑に響くような声が主張する。 少女は、確かに白い羽の髪飾りをつけていた。 (そういえば・・・! 昔話にあったかも。 人身御供の印に白い羽の矢がたつって話) 今の今まで可愛い衣装に合わせた飾りくらいにしか思っていなかったが、花梨はぞっとして少女の髪から羽を引き抜いた。 「ん?その娘・・・」 ふと、森から届く声に面白がるような響きが含まれた。 「珍しや。微かではあるが、神気ではないか。 お前が贄になるか?」 (じょ、冗談でしょっ) 握り締めていた白羽を、花梨は慌てて離す。 しかし、声は最早標的を花梨に定め直したらしく、不気味に笑いながら宣言した。 「今宵、改めて贄を貰いにゆくぞ」 遠ざかる声を聞きながら、花梨は目を見開いたまま、青ざめた。 「すまない、花梨。 私の手落ちだ」 眉を寄せて心底辛そうな表情で、泰継に謝られて、花梨は慌てて手を振った。 「ち、違いますよ。 あんなことになるとは思ってなかったですけど、しゃしゃり出たのは私ですし・・・」 花梨は、泰継とともにあの少女の家−立派な宿屋だったが−に来ていた。 花梨の母には、「少女が怖がるので、傍についていてあげたい」と苦しい言い訳をして、別れてきた。 あのとき、周りにいた人々には、なにやら不気味な音をたてる突風が吹いた、という認識しかなかったようだ。 贄を求める神が現れたことも、花梨を標的にしたことも、泰継と、間近にいた少女の近親者しか聞いていない。 苦しい言い訳で宿に戻らない件については、母は泰継に無闇に寛大なので問題ないかもしれないが、さて、父にはどう説明したものだろうかと、後のことを思って花梨は頭を悩ませた。 だが、さしあたっては、あの生贄を求める神の件を片付けねばならない。 「私どものせいで、申し訳ありません」 泰継と同じくらい、悲痛な顔で頭を下げたのは、ここの女将である女性だった。 贄の少女の母親である。 「数年に一度の祭りですけど、今までこんなことは・・・。 今でもなんだか信じられません、昔話が本当になるなんて」 「でも、その昔話って、確か生贄を求めたのは本物の神様じゃなくて、退治されるんですよね? だから、大丈夫ですよ、優秀な陰陽師がいるんですから」 安心させるように、、殊更笑顔で花梨は気楽な口調を作ってみせた。 「ああ、必ずお前には危害を及ばせない」 泰継は真摯に請合った。 「さて、何故今回に限り、あの神を名乗る妖が現れたかだが・・・」 「はい」 「あの神社には犬の形代がなかったか?」 「犬の形代・・・ですか?」 突然聞かれて、面食らったようだが、女将は首を傾げて考え込んだ。 「そうだ。像でも、絵でも何かなかっただろうか?」 「そういえば・・・本殿の脇に像が・・・狛犬にしては対ではないし、獅子形でもないし、と思っていたんですが」 「それはどうした?」 「先日、祭りの準備にお願いしていた村の人手が入ったんですが、そのときに破損してしまって・・・、修復のために移動しているんです」 「それが、封印の役目を果たしていたのだな。 その像がなくなったために、妖が解き放たれた」 しばし、口元に手をやって考え込んでいた泰継は、目を上げると女将に頼んだ。 「着物を貸してはもらえまいか?」 それから、花梨の抱く子犬と目を合わせるようにしゃがみこんだ。 「お前にも協力してもらおう」 半分欠けた月が昇るころ、灯りのついた窓もなく、一帯は木々の濃い闇に包まれていた。 その闇のどこからか、不気味な歌が近づいてくる。 「今宵、今晩、このことは・・・」 毛むくじゃらの手が、障子を開ける。 月の光が届かぬ部屋の中には、着物を被いて蹲る影がひとつ。 模様の仔細は分からぬながら、優美な小袖を被いたその影は、じっと項垂れているようだった。 手には白い羽がある。 「貰い受けににきたぞ。 我の白羽の印を持つ者は我の贄、さあ・・・」 うずくまる影に手を伸ばした瞬間 「うおん!」 勇ましく吠えて、物陰に潜んでいた子犬が獣に飛びかかった。 ばさりと衣を脱ぎ捨て、手に持っていた白羽を放り出したのは、翠の髪の陰陽師。 「劫火招来、急々如律令!」 「ぎゃあっ!!」 術の直撃を受けて、傷を負った獣は障子を破って外へ転げ出た。 「逃がすな!」 「わん!」 一声吠えて、子犬が鞠のように飛びかかる。 月の微かな光が照らし出す、獣の姿は巨大な猿に似ていた。 泰継は氷のような声音で呪を紡ぐ。 唸りをあげながら、小さいながら鋭い牙を向ける子犬を、血のような赤い眼で睨みつけ、猿怪が咆哮する。 「縛!」 放たれた呪力の鎖は、猿の化け物を押さえ込んだ。 唸り声をあげる猿怪を見下ろし、泰継は符を構える。 「仮にも神を調伏する気か」 憎々しげに猿怪は泰継をねめつけた。 「何が神か、神子に手出しをしようなどという獣が」 「神殺しは大罪、決して落とせぬ穢れ、一生お前につきまとうぞ」 「花梨のためなら、厭いはせぬ」 一言で切り捨てて、泰継は真言を口にした。 「泰継さん!」 それを制止したのは少女の声だった。 女将や少女とともに、離れた部屋にいた花梨だったが、物音に居てもたってもいられず、様子を覗きに来たのだった。 「出てくるな、花梨」 「でも!」 (駄目だよ・・・泰継さんだけが全部背負い込むなんて) 泣き出しそうな花梨に、泰継は浅く笑ってみせる。 「心配ない。お前は心を煩わすな」 「そうじゃなくて」 と花梨は反論しかけた。 が、その僅かな隙に鎖を破った猿怪が、咆哮をあげながら花梨に襲いかかった。 「花梨っ!」 符を構え直した泰継が術を放つより速く。 猿怪に比べるべくもない、小さな影が化け物の喉元に喰らいついた。 「シバくんっ」 「ぎゃあっ!」 それでもたまらず、猿怪は倒れこむ。 『神子、力を』 頭の中に声が響いて、花梨は目を見開いた。 「え?」 『五行の気を』 (で、でも、もう私には力は・・・) 心の中であわあわと答えると、また声が返ってきた。 『この地ならば、今でもまだ気は巡っている』 (ええ・・・!?) 「花梨、さがれ!」 泰継が花梨の腕をつかみ、自身の後ろに引き込んだ。 そのまま、小声で真言を唱える。 泰継に猿怪を調伏させてはいけない、 彼にだけ業を背負わせたくはない、という気持ちが強く花梨の心を動かした。 (京で、怨霊を封印して・・・その性を和らげたように・・・) 無意識のうちに、花梨は目を閉じ、祈るように指を組み合わせた。 (この神様を、元のあるべき状態に・・・!) ぱあっ、と白い光が辺りを染めた。 その光が、小さな子犬に集まっていく。 小さいが、鋭い牙に光が宿って、子犬は猿怪に牙をつきたてた。 光が消えたとき、猿怪もまた消えていた。 「いなくなっちゃった・・・?」 子犬は、今何があったんですか?といった風情で、無邪気に尻尾を振っている。 呆然としたまま、子犬を抱き上げる花梨を、泰継もいささか呆気にとられた態で見た。 「あれは、きっとどこぞの廃された社の使神だったのだろう。 神子の力で元の形に戻ったのだ」 「そう・・・なんですか」 それでも、花梨は深く安堵した。 泰継が自分を大切にしてくれるのは嬉しいが、花梨のほうだって、泰継のことはこのうえなく大切なのだ。 「さあ、部屋に戻るか」 「はい。 ・・・それにしても・・・私、お父さんになんて言い訳しよう・・・」 「お父上に怒られるか? 必要なら私が一緒にいって謝るが」 「だ、だめだめっ! 余計誤解されますっ!」 花梨はぶんぶんと首を振って断ったが、泰継は自分のせいなのだから、自分が謝ると言って譲らなかった。 次の日、花梨の父が泰継に謝られて卒倒しそうになったのは、また別の話である・・・。
「しっぺい太郎」をシバくんで・・・と思ったのですが、辻褄あわせに大苦戦。
そもそも、舞台が現代ってあたりでいろいろ制限されてくるものはあるんですが・・・。(「迷宮」だって怨霊は迷宮の中だけだったのにさ・・・^^;) 寝かしに寝かし、去年の夏くらいからずっと書いては止め、の繰り返しだったんですが、もういい加減、手を離さないと気になって仕方ないので、アップしてみました。 2006.5.28
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