新選組ツアーしよう、と思い立って出掛けた京都。 今回も、妹と京都駅で待ち合わせ。 「風光る」のガイドムックを持ってきてくれたので、それも見ながら、本日の行動を決定。 駅から壬生方面へ歩いていくことにします。 まずは、駅のすぐそば、不動堂村屯所跡。 これは、リーガロイヤルホテルの前に碑があります。 近藤さんの和歌が刻んであります。 そこから、ものすごく大雑把な地図を手に(詳細な地図の載ったムックはカバンに入れるには大きいので、荷物と一緒にロッカーに置いてきてしまった・・・)、伊東甲子太郎絶命の地の碑を求めて彷徨いました・・・。 細い道になっている油小路通りの小さなお寺(本光寺)の前に、説明札と碑が立ってます。 ここで「中に絶命の地の碑があります。インターホンを押してください」との張り紙を発見。 迷ったのですが、押してしばらく待っていると、おばあさん(ご住職?)が出てきて、中に入れてくれました。 門のすぐ中に、お寺の流派と名を書いた碑が立っています。 伊東さんはここでお亡くなりになったのですね〜。 もともとは、門はもっと中にあったんだそうです。 大河の役作りで、伊東役と藤堂平助役の方が来たとかで、写真も置いてありました(笑) 油小路事件の地、は碑があるのかどうか、よく分からなかったです・・・。 それから、天満屋跡の碑(これは「志士、中井庄五郎殉難の地」と書いてあります)。 私的には天満屋事件=斎藤さん、なのですけど(苦笑) それから西本願寺の太鼓楼。 新選組が借りた北集会所は、移築されていてもうないのですが、ここに生活してたんですね・・・。 お堂に入って、参拝の方々に混じって端っこでお経を聞いたのですが、やはり宗派ごとに全然違うものなんでしょうか、お経って。 実家でお盆や法事のときに聞くのと、全く違いました。 それから、てけてけ歩いて島原大門へ。 門を入ったすぐそばを曲がると、輪違屋です。 こちらは今でも営業している置屋さん。 ちょっと行くと(もう道順はすっかり妹任せ・・・^^;)角屋です。 一階は展示と座敷の公開を普通にしているのですが、二階の座敷を拝見するのは予約が必要です。 でも、ラッキーなことに、「今日は空いてるから」とその場で予約させてもらえました。 一階の大広間「松の間」が芹沢鴨暗殺の日に宴会をしたところだそうです。 庭の臥龍松は、当時名所として書籍に書かれたとか。 庭をよく見せるために柱がない吊り天井の軒になっている、とか、入ってきたときの見栄えのために斜めに棚がつけてある、とか、お茶室が三軒もあるとか、蝋燭で壁や天井が煤けている、とか・・・詳しくいろいろと説明してもらえました。 料理を作るので、台所はものすごく広く、100畳あるとか、戦争中は取り壊されるところだったが、西郷が使ったという洗い桶などを見せて史蹟であることを主張し、免れた・・・とか、興味深い話、盛り沢山。 新選組関連では、ツケ(一見さんお断りの掛け払いシステムなんだそうです)は駄目、現金払いにしてください、と監察かな?から出された書状とか・・・それでツケで飲めなくなった隊士がつけた刀傷とか^^;がありました。 随所に書かれた、太夫は花魁とは違う、花街は遊郭とは違う、という強い主張に、プライドと意地を見た気がします。 いろいろ説明を聞いたり、展示の螺鈿細工を見たりしていたら、二階を拝見する時間になりまして、階段をあがって二階へ。 緞子の間、扇の間、網代の間など部屋ごとに趣向が違います。 また、増築を重ねているので、ひとつの部屋でも趣向の統一が保てなくなっているところもあるとか。 障子の桟が波型になっていて、右から見るか左から見るかで、ふくらみ(目の錯覚でそう見える)が違う・・・なんて面白いものも。 一番すごかったのは、青貝の間。 壁や桟が一面螺鈿細工です。 当時は珍しかったという、露台があったりもします。 ここにも、巡察に来た新選組がつけたという刀傷が。 小説で、伊東に誘われた斎藤さん永倉さんが、居続けで飲んでいたのがこの部屋、というのがあったので(史実かどうかは知りませんが・・・)、「ここで・・・v」と勝手に嬉しくなってしまいました;;; 建物としても、当時の風俗としても、新選組関連としても、興味深いので、すごく面白かったです。 そこから一キロほど歩くと、壬生。 私たちが歩くと20分から25分ほどですが・・・当時の隊士の足だと、もう少し早いかな? 今回、京都のスポットの雰囲気に浸るのと、空間把握と、所用時間が知りたいというのもあったので、そんなことも気にしながら歩いたのでした。 前川邸は公開されてませんが、土日はショップとして開いてます。 ここで、写真ハガキと邸内見取り図を買いました。 山南さんが切腹した部屋とか、古高を拷問した蔵とか説明してあります。 それから八木邸。 説明してくださる方が一回ごとに交替し、その人ごとに話すことや口調も違うので、面白くて二回聞いてしまいました。 座敷で「こちら側に芹沢鴨が、衝立を挟んで平山が・・・」なんて聞いていると、生々しいですね;;; 今はもうあんまり分からないのですが、天井は紅で、お嫁に来た方が気味悪がったので血の跡を隠すために塗った・・・んだそうです。 そこで斬りつけられた芹沢さん、廊下から隣の部屋へ逃げ、机に躓き・・・という机、置いてありますし。 当時、その部屋で奥さんと子供たちが寝ていたそうですが、いきなり人が倒れこんできたらびっくりですよね・・・一人は足に傷を負ったそうですし、トラウマになりそうな出来事ですねえ;;; ちなみに、部屋の鴨居にある刀傷、大河効果で人出が多く、皆が触ると擦れてしまうので、カバーをつけてます、とのことでした^^; この暗殺、暗殺だから当然なんですが、誰がやったかは、小説や資料によって違いますね。 土方、沖田あたりはだいたい名前が上がりますが。 鴨居が低い(私は164センチですが、私でぎりぎり頭打たないくらい・・・。斎藤さんや梅さんは頭打ちますね^^;)のは、昔の人の身長のせいかと思っていたら、武家屋敷は刀を振り回させないために、わざと低くしているそうです。 ちなみに、長屋門と式台つきの玄関があるのが武家屋敷だそうな。 玄関のほうから見た屋敷、ゲームの背景と同じですよ^^ 今は式台のほうから入りますが、当時はお客様しか入れず、普段はその横の土間の入り口から入ったそうです。 そのあと、お休み処で屯所餅(つぶあんのお餅に壬生菜が入ってます)とお茶をいただいて、一休み。 この日のお昼はその前に買い食いしたきんつばと、この屯所餅でした;;; ここで、お土産品を見ながら「斎藤さん」と言っていた女の子二人・・・何の斎藤さんファンだったんだろう。大河かな? それから壬生寺です。 ずっと以前に来たときは、塚は境内の一角で自由に見られたんですが、今は囲むように建物が出来ていて、通るときに100円(2005.10月当時)入れるようになってます。 ここに芹沢さんのお墓や、河合耆三郎のお墓があります。 近藤さんの銅像も。 ショップで、永倉さんの「新選組顛末記」を売っていたので、買いました。 旅先でハードカバーの本を買う姉に、妹呆れ気味です;;; 狭くはないですが、調練するほど広いだろうか・・・とも思う境内。 ここで、沖田さんが子供と遊んだりしたんだ・・・。 光縁寺も行こうと思ったのですが、門は閉ざされていて「見学見物お断り。お墓参りの方のみ」と書いてあったので、どう見てもミーハ―な我々は駄目だろうと思い、スルーすることに。 そろそろ夕方、バスで四条河原町へ。 この辺は「〜跡」という碑が多いのです。 まず、「中岡慎太郎寓居跡」 象印が目印の油取り紙屋さん前。 それから近江屋跡(うう、梅さんのイベント思い出すと泣ける・・・)は旅行会社の前。 池田屋跡はパチンコ屋の前。大河関連か、立て札が立ってました。 酢屋(今は木工芸品店ですが、龍馬関連のギャラリーがあります。 海援隊の屯所跡)。 三条制札所跡は、よく分からなかったんですが、とりあえず河原に降りてみたり。 それから、「えい、この際行ってみるぞ」と行ったホテルオークラ前には桂小五郎像。 ここは長州藩邸跡です。 その先は一の舟入。今、高瀬川ってものすごく浅い(川というより溝・・・)ですが、当時はどうなんでしょう;;; もはや日も暮れ、足も痛くなりましたが、碑を辿って歩く我々(というか、付き合わされたうえに、ナビは全部任されている妹^^;)。 大村益次郎、佐久間象山遭難の碑、吉村寅太郎寓居跡、武市瑞山寓居跡(ちなみに、CDドラマで岡田さん(人斬り以蔵)に入れ込むと、武市さんのイメージは悪いものになりがち・・・^^;)。 あと、土佐藩邸跡の碑を発見して、八坂神社前のローソン(祗園会所跡)まで辿り着きました。 当時、何件くらい旅籠や料亭があったのか分かりませんが、一軒ずつ改めていったとしたら、時間がかかりそうです(勿論、絞り込んであったんでしょうが・・・) 夕食は、「斎藤さんが蕎麦を食べようって言った」との阿呆な姉の意見により、蕎麦でした。(デスクトップアクセサリに収録されている台詞で、「今度は甘いものじゃないものを食べに行こうと言っただろう」というのがあるんで・・・) よく歩いた一日でした。 |
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