―この先はないと思っていた。
あと、どのくらいの猶予があるのだろうかと怯えていた。
いくら想っていても・・・
別れははじめから定められているのだから―
それでも・・・それだからこそ。
今、あなたに逢いたい、と心から望む。

―あなたに逢いたい―



逢瀬




「このところ、泰継さんの顔見てないなあ・・・」
花梨は御簾の影から白く染まった早朝の庭を眺めて、密かにため息をついていた。
この二、三日、泰継は館に顔を出していなかった。
「会いたい、な・・・」
もう、あと何回その姿を見られるか、言葉を交わせるか、分からないのに。

結界が崩れ、時が動きはじめ・・・終わりの予感はひしひしと迫ってきている。
自分が正しいのか、間違っているのか、迷いはないといえば嘘になるけれど、それでも、何もせずにいるわけにはいかない。
穢れを抱えたままでは、京は新年を迎えることなく滅びの中に消え去ってしまう。
それはなんとしても、防がなくてはならない。

しかし―
そのとき、どうなるのか・・・自分の身がどうなるのか、分からない。
龍神に呑まれてしまう、と泰継には言われた。
そうでなくとも、役目が終れば、召喚されたときのように、瞬く間に元の世界に戻っているのかもしれない。

その前に。
会えなくなる前に、もっと見ておきたい。
その愛しい姿を。
その声を、もっと聞いておきたい。
自分の名を呼ぶ、優しい声を。



「神子様、おはようございます」
紫姫がやってきたのを知り、花梨は素早く笑顔に切り替え、小さな姫に朝の挨拶をした。
「おはよう、紫姫」
「今日はいかがなさいますか?」
「ええとね・・・」
今日も、やるべきことはたくさんある。
先ほどまでの物思いは胸の底に押しやって、花梨は紫姫とともに控えの間に向かうべく、歩き出した。







花梨たちは、暮れはじめた都路を、急ぎ足で辿っていた。
この時期の夕暮れは早い。
ぐずぐずしていると辺りは闇に包まれてしまう。
「?」
道を急いでいた足を止めて、花梨は夕焼けの空を振り仰いだ。
「どうなさいました、神子殿」
先に立って歩いていた頼忠が振り返る。
「・・・何か聞こえませんでした?」
「いえ・・・私には何も」
頼忠は花梨の傍らの翡翠に視線を向けた。
「私にも何も聞こえなかったね。気配には敏いほうだと思うのだが・・・」
二人の八葉はじっと辺りの気配を窺ったが、特に何も捉えられはしなかった。
都の内でも、右京のこの辺りは建物もすっかり崩れ、荒れ果てている。
人の気配はおろか、獣のたてる物音も今はなく、辺りは静寂に包まれていた。

「でも・・・」
胸が痛くなるような、この『声』は。
呼んでいる・・・?

花梨はその微かな声の元を探して、路の脇へ入っていった。
「神子殿?」
草が生い茂って隠されてはいるが、そこはかつては社だったようだ。
わずかに残った朱の色の施された柱が、転がっている。
そして、すでに形を残さぬ主殿の奥に、小さな鏡のように澄んだ池があった。
ほとんど無意識に、花梨は池のほとりへと足を進める。
二人の八葉は、油断なく辺りに目を配りながら、花梨の後ろについていく。
池傍に屈み、手を伸べると、水は切るように冷たかった。
暮れはじめた空の下、水の中はほとんど見えなかったが、底のほうにきらりと輝く物があるような気がして、花梨は目を凝らした。

勾玉・・・?

ちりん、と鈴の音が聞こえたように思った瞬間。
「あっ・・・」
ずるっと足元がすべって、引き込まれるように身体が傾ぐ。

「神子殿!!」

冷たい、というよりも痛さをもたらす水の感触。
上下の感覚が混乱し、水面を求めて花梨は焦った。
ぼんやりとした暗がりの中に、見えるのはぽつりと小さな白い輝きだけ。
暗い水の中でも白く目立つ勾玉がゆらりと波に乗って目の前に浮かんでいた。
(あ・・・さっきの勾玉?)
無意識に手を伸ばすと、それは花梨の手の中に納まり、ぽうっと光を放った。

ざば、と水面に顔を出すと、頼忠が駆け寄って助け起こしてくれるところだった。
翡翠が手を述べ、岸に引っ張りあげてくれる。
「まったく、少しも目を離せない姫君だね」
「ごめんなさい・・・」
お小言口調ではあったが、手は優しく上着を着せ掛けてくれていた。
「お怪我はありませんか」
「大丈夫です、ちょっとびっくりしただけで」
「しかし、このままでは凍えてしまいます」
早く帰って火にあたらなければ、と二人に急かされて、花梨は四条の館に急いだ。




館に帰り着くと、仰天した紫姫に泣くほど心配され、花梨は早々に褥の中に押し込められた。
「ふう・・・」
頭まで夜具を引き被って、花梨は息を吐いた。
急いで帰って来たものの、やはり冬の夕暮れは濡れた体を凍えさせた。
気が緩んだ今になって、身体はかたかたと震えだしている。
衣を巻きつけ、ひとつ寝返りを打つと、花梨はとろとろとまどろみの中に落ちていった。
その枕元で白い勾玉がぼうっと光を放っていた。




泰継は独り、闇に沈む四条の屋敷の庭に立ち、星を眺めていた。
眺めている、というよりもただ目を向けている、というのが正しいのかもしれない。
夕刻、神子の気が乱れたのに気付き、四条の館へとむかったものの、花梨の前に立つことが出来なかった。
ここ数日、神子を前にすると胸の中がざわめいて、思考がまとまらなくなるのだ。
力は取り戻したはずなのに、これでは神子を守ることが出来ない、と怖れた泰継は、同道を躊躇っていた。
それなのに、「念のため辺りを清める」と紫姫に告げ、未だにここに留まっている己をどうかしている、と思う。
胸のうちにわだかまるものがなんなのか、淡々と高みを運行していく星を読むようには、読み解けない。
これは、自分がまだ感情というものに慣れないせいなのか・・・。
花梨のことを想うときに胸を塞ぐ痛み、花梨が「寂しさ」だと教えてくれたそれを大事に抱いて、そっと生きていけると思ったはずだった。
だが、収まりどころのない、ざわめくものが自身のうちを荒れ狂うのを感じている。
どうあがいても、鎮めることなど出来そうに無いざわめきは、理解できぬまま激しくなるばかり・・・。



さく、と草を踏む軽い足音が耳に届き、泰継は意識を空から引き戻した。
館内とはいえ、周りの様子から気をそらしているとは・・・ひとつ息をつき、振り返る。
単に軽い袿をかぶっただけの薄衣の華奢な影が佇んでいた。
「神子・・・?」
微かな明かりを反射して、その頬がきらめく。
花梨は表情を凍らせたまま、ほろほろと涙をこぼしていた。

泰継は、無防備に月の光の下に立ち尽くす花梨の姿に、目を奪われていた。
手が、無意識のうちに花梨の頬に零れる雫に伸びる。
(触れてはいけない)
頭の片隅で警鐘が鳴ったが、もはや止めることは出来なかった。
(触れれば、離れられなくなる)
涙の滴をそっと拭うと、若葉色の瞳がまっすぐに泰継を見上げる。
それが、どれほど己を捉えて離さぬものか、自覚もなく。
抑えることが出来ないまま、泰継の腕は花梨を引き寄せ、強く抱きしめていた。

「や、すつぐさ・・・」
だが、彼女の唇からこぼれた微かな言葉が耳を打った瞬間に、はっと我に返る。

(何をしている、私は)

泰継は腕を引き剥がすと、背を向けた。
「このような時刻に外へ出てはならぬ」
「ごめんなさい・・・気がついたら、ここにいて・・・あれ?」
頬を拭った花梨は、自らが泣いていたことに驚いたようだった。
「私なんで・・・」
「とにかく部屋へ戻れ」
鋭く泰継は言って、花梨のほうを振り向いた。
そこで、軽く目を瞠って固まった泰継に花梨が訝しげな顔をする。
「泰継さん?」
「・・・花梨、どこかおかしなところはないか?」
「はい?」
急に言われて、花梨は訳も分からず、端正な陰陽師の顔を見上げた。
「すぐに気付かぬとは、私も相当どうかしている」
「えっと・・・何が・・・ですか?」
「お前のうちに、龍神の神気とは別に、微かになにかの気配を感じる」
きょとんとしている花梨を、とにかく冷える外から室内に連れていくべく促しながら、泰継は内心己の失態を責める。
(己を制御できず、神子を守ることさえ出来ず・・・何をしているのだ、私は)



花梨の室まで彼女を連れて戻り、花梨を褥の上に座らせた泰継は、改めて注意深く花梨の気を探った。
感じられる気配は、悪いものではない。
むしろ、龍神の神気に近しいものすらある。

「花梨、今日は何をした?」
「今日ですか・・・えっと神護寺と松尾大社に行って、怨霊を封印したのと、具現化と・・・」
宙を見上げるようにして、今日の行動を思い返す花梨。
「濡れて帰ってきたのは、池に落ちたのだったな?」
「はい・・・」
花梨はばつが悪そうに小さくなった。
「勾玉みたいなものが見えて、手を伸ばした拍子に・・・」
「勾玉?」
泰継の声が鋭くなった。
「こ、これなんですけど・・・」
無意識にうちに、掌に握り締めたまま四条まで持ち帰った白い勾玉を、差し出す。
それを見遣って、色違いの宝石のような瞳が、細められる。
「これは・・・ある種の呪具だな」
「えっ!?」
「悪いものではなさそうだが・・・耳飾り・・・か?
相似系のまじない・・・」
「泰継さん?」
勾玉に目を落としたまま、ぶつぶつと呟きだした泰継だが、花梨の視線を感じると、すっと立ち上がった。
「何はともあれ、お前の中にある気配の正体を探るのが先決だ。
私は、明日その社のある池に行ってくる。
とにかく、お前は今日はもう休め」
「はい・・・」
大人しく答えて、花梨は御簾の向こうに去っていく背を見つめていた。









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