その日目覚めたのはふたつのものだった。 嵐は初夏の訪れを告げていた。 生温い夜闇を雷鳴が切り裂く。 息を潜める数多のものたちを叩き起こすがごとく。 生き物たちは強い雨に混じる夏の気配を感じて、浮かれ始める。 天空を荒れ狂う雷神は、一際鋭い光の矢を放った。 それが落ちた先は、もはや一目ではそれと分からぬほど古びた塚。 いかづちは、ささやかな塚を打ち砕いた。 しばしの静寂。 再び閃光が走ったとき、闇の中に一対の金の瞳が雷光を反射して光った。 続けて光が辺りを浮き上がらせたとき、それは既に闇の彼方に紛れ去っていた。 そして、うずくまる小さな影が残った。 神使「花梨、出掛けるの? 遅くならないようにしなさいよ。連続切り裂き魔事件とか言って、最近物騒なんだから。」 ばたばたと出掛ける支度をしていた花梨を見遣って、新聞を見ていた母親が声をかける。 「また載ってるもの。あらやだ、すごく近いわよ」 「だーいじょうぶー!泰継さんが一緒だから。 行ってきます!」 弾む声だけを残して、走り出していった娘を見送って、母はひとつ首を振った。 花梨と泰継は、藤の名所と名高い寺院に来ていた。 雑誌で紹介を見た花梨が行ってみたいと言ったのだ。 しかし、さすがに名所だけあって、人出も多い。 出店に気を取られた隙に、人波に押され泰継とはぐれてしまった。 こんなことなら、照れたりせず、手を繋いでおくのだった、と花梨は後悔した。 (でも、泰継さんならすぐ見つけてくれるよね・・・) 花梨は、人の少ないほうへと歩き出した。 人に紛れていないほうが、泰継が自分の気を探しやすいだろうと思ったのだ。 (あれ?) 参道を外れ、生垣の途切れたところを出ると、小さな広場があった。 建物の基礎と思われる、石組みだけが、ほんの少し残っている。 「神社の跡・・・かな?」 「わん」 「わっ」 突然の声に驚いて下を見ると、足元に子犬がじゃれている。 「どうしたの、迷子?」 花梨がしゃがんで手をのばすと、子犬は甘えて擦り寄ってきた。 まだ幼稚園児、といったくらいの幼犬で外見は柴犬に似ている。 ふかふかした柔らかい毛をそっと撫でてやると、子犬はぱたぱたと尻尾を振って喜んだ。 「一緒に待とうか。頼りになる人がすぐ来てくれるからね」 言い終わらないうちに、翠の髪の青年がやってくるのが見えた。 「ほら」 花梨は自慢気に子犬に微笑んでみせる。 「花梨、無事か」 「大丈夫です〜」 花梨が子犬の手をとって、振って見せた。 花梨の元へ辿り着いた泰継が怪訝な顔をする。 「なんだ、それは」 「何って、子犬ですよ?ここで迷子になってたみたいで・・・」 「いや、それは犬ではない」 「え!?」 どう見ても子犬にしか見えないのに、断言されて花梨は驚いたが、泰継は静かな目でじっと子犬を観察している。 「これは・・・犬神だな」 「犬神?」 「いや、怨霊ではない。これはまがりなりにも神の眷属だ。 そうだな・・・春日の鹿のような、神の使いと言えば分かるか?」 「ふうん?」 「もっとも・・・神格があるというだけで、生身の生き物ではあるが」 泰継はすっかり花梨に懐き、甘えている子犬を見遣った。 それから、夢中になって子犬をあやしている花梨の姿に、ため息をついた。 「すっかり懐かれたな。 お前はどうしてそう、なんでも引き寄せるのだろう・・・」 そう言われても、花梨にはそんな自覚はない。 「私には普通の子犬にしか見えないんですけど・・・」 「まあいい、お前に害がないのなら。 帰るぞ」 「この子どうしよう?」 「・・・どうする気なのだ」 花梨は首を傾げた。 「おうちを探してあげたいんだけど・・・」 「うち、と言っても・・・」 泰継も首を傾げて、子犬を見た。 「まだ幼体のようだ。 どこから来たのか、自分でも分かっていないらしい」 「そっか・・・」 考え込んでいた花梨が、ちら、と泰継を見上げる。 「うちは動物駄目だしなあ・・・」 お願いモードで花梨が見上げてくるのに、泰継はとてつもなく弱い。 弱いが。 「駄目だ。それに、私は今日の夜から仕事で出ている」 かろうじて、渋い顔をしてみせることに成功する。 「しょうがない、今日はお母さんに頼み込んで、置いてもらおうね」 子犬をよしよし、と撫でながら花梨が話し掛けるが、分かっているのか、いないのか、子犬は一心不乱にその手にじゃれている。 「あ、名前が分からないと呼べないよね」 「自らの名を言の葉に出来るほどの自我はないようだ」 「うーんと、じゃあ、私が考えてもいいですか?」 「お前が名付けるならば、それがもっとも相応しいだろう」 そう言って、泰継は微笑した。 夜になって、南風が強くなり、温い風が吹き荒れ始めた。 花梨を送り届け、いったん自宅のマンションに戻って身支度を整え、泰継は街に出ていた。 乱された大気の中に、闇に住まうものたちの浮かれた気配が紛れている。 「妖が騒ぐ陽気だな」 呟いて、細められた琥珀の瞳が、暗がりを射る。 「風も強い・・・条件は叶っている、と見るべきか」 今回の依頼は、最近この近辺を騒がす『連続切り裂き魔』事件を解決してくれ、というものだった。 もちろん、本当に切り裂き魔ならば陰陽師に依頼がくるのは筋違いだ。 だが、 「切りつけてきたのは影のようなものだった」 と主張する依頼者が、たまたま複数の仲立ちを挟み、泰継に仕事を依頼するルートを知っていた。 被害者の多くは口を揃えて「風が強くて、思わず目を瞑ったら次の瞬間にはぱっくりと切り傷が出来ていた。人間業ではない」と述べているという。 泰継がこの曖昧な依頼を引き受けた主な理由は、最近の被害が花梨の自宅近くに起こっているからだ。 花梨に害が及ぶ可能性がある以上、妖であれ、人間であれ、排除しておきたかった。 上空を吹き流される雲が一際濃い闇を作り出した。 「!!」 風が刃となって吹き抜け、翠の髪を乱す。 とっさに使った護身用の術では相殺しきれなかった風が、細かい傷をつけた。 泰継は目の前の闇を睨みつけた。 「怨霊・・・鎌鼬か」 黒い獣が風に乗り、金に光る瞳でこちらを窺っている。 今までの犠牲者と違う相手だ、ということが分かったのか、獣がきいきいと高く吠えた。
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