あの人は今日はやってくるだろうか・・・。
毎日溜息をついて、それでもほんのわずか、期待して。
どれくらいそれを繰り返してきたのか、もうわからなくなってしまった。
それでも、私は待っていたい。
 「もう少しだけ・・・」
呟いた言葉は、薄闇のなかに溶けていく。


時の庭





通い慣れた部屋のドアがタイミングよく開くのに、花梨はもう驚かない。
京を救ったあと、花梨と一緒にこちらの世界に来てくれた泰継は、人でなかった頃の力や、八葉の神力はなくなっていると言う。
しかし、花梨の気を辿ることや、陰陽師として看板を掲げて、口コミでの依頼に困らぬ程度の術力の行使は可能らしい。
花梨が泰継の部屋を訪れるときは、いつも泰継は花梨の来訪を察知して、ドアを開けて迎えてくれる。
 「こんにちは、泰継さん」
にっこりと笑って挨拶したはずだが、泰継は微妙に眉をひそめた。
 「早く上がれ。部屋は涼しいはずだ」
花梨の背を抱くようにして、リビングへと導く。
 「わあ、涼しい」
あまりエアコンなどの空調機器を使用しない泰継だが、部屋内は清涼な気に満ちている。
花梨はほっとしたように息をついて、ソファにかけた。

 「花梨様、どうぞ」
 「ありがとう、白耀さん」
白銀の髪の樹木の精霊が、花梨の前に冷たい茶を出してくれる。
式神である彼は、この部屋の中では、実在の人のように存在感がある。
服装は映画の中から抜けてきたような狩衣なのだが、この部屋にはずいぶんと馴染んで見えた。

そして、花梨の足元で一生懸命に尻尾を振っている子犬。
花梨によって、「シバくん」という命名を施された子犬も、実態は神使であり、半精霊である。

 (花梨はいろいろなものを惹きつけ、受け入れる・・・)
子犬を抱き上げて撫でている花梨を眺めつつ、泰継は内心で呟いた。
その中に自身も入っている、と泰継は冷静に認識している。
彼女の暖かく優しく輝く気に、ふと気付いたときには魅了されていた。
そして、花梨は人外の者と怖れられ、時の流れから切り離されて独り過ごしていた泰継を受け入れてくれた。
花梨は泰継のことを、この世界に「連れてきてしまった」と申し訳なさがるが、彼自身は「花梨の世界に受け入れてもらった」と思っている。


 「ああ、生き返る〜」
茶を飲んで、ほうっとため息をついた花梨は、少々の茶目っ気を込めて、大仰に言ってみせた。
しかし、泰継は真顔になると、
 「避暑に行くか」
と切り出した。
 「このところ、お前は消耗しているように見受けられる。
連日の暑さで、気の調和が乱れているようだな」
そして、花梨が目を丸くしている間に、てきぱきと行先や宿泊地を決め、花梨の母に連絡を入れて、承諾を取るということまでやってしまった。
花梨の母には大いに気に入られ、父にはしぶしぶながら(妻と娘に押されて)黙認されている泰継である。
母は、羨ましいわあ、と言いながら鷹揚に許してくれたようだ。



かくて、泰継は花梨と、世間的にはペット扱いで同行しているように見えるであろう子犬を連れて、高原の避暑地へと降り立った。
精霊である白耀は本体である文箱の宿りに戻ってボストン鞄の底に収まっている。
 「わあ、空気が澄んでますね」
花梨は大きく伸びをして、笑顔を浮かべる。
花梨に抱かれた子犬の尻尾の振りようも、嬉しさを表現しているようだった。

さすがに避暑地を謳う高原の空気は、からりとして、涼しく感じられる。
緑の中を渡ってくる風も相まって、清涼な雰囲気が漂っていた。
 「少し歩く」
泰継が先にたって、宿への道を辿り始めた。
花梨と子犬は物珍しそうに辺りを眺めながら、後を追う。
 「わあ、可愛い花」
 「あれはトモエソウだな」
 「あっちの白いのは?」
 「ゲンノショウコか。薬としてよく使うな」
 「そういえば、泰継さん、役に立つから好きだって言ってましたね、石蕗とか」
ふふっと笑って花梨が泰継の顔を見上げた。

感情がないから、好き嫌いもない、役に立つから―
そう表情を動かさず言ってのけた、その時の泰継を花梨は思い出す。
感情がない、人の気持ちはわからない、と言いながら、最初から泰継は花梨に手を差し伸べてくれていた。
 (優しくて、孤独だった人・・・)
改めて、今二人が手を伸ばせば触れられる位置にいることの不思議を思う。
自分が異世界に召喚されなければ、泰継が人よりも長い時間を過ごしていなければ、出会うことすらなかったのだ、と。



泰継が手配してくれた宿は、林の中に建つこじんまりとしたペンションだった。
個人経営らしいが、女性に喜ばれそうな瀟洒な造りである。
ところが、玄関を入り、訪いをいれたが、どうしたことか対応に出てくる者はなかった。
 「すみませーん」
奥にむかって、何度か呼びかけ、ようやく主人らしき人物が現れたが、彼はなにやら慌てているようだった。
 「すみません、今取り込んでおりましたもので・・・。
ご予約いただいた安倍様ですね」
 「なにかあったんですか?」
 「いえ、お客様が・・・」
主人が二人を案内しながら、きれぎれに語ったところをまとめると、どうやら泊り客の一人が、散策から帰ってきた途端、倒れたらしい。
眠っているような状態に見えたが、救急車を呼んだりと、騒ぎになって、奥方が今一緒に病院に行ったところなのだとか。
 「お騒がせして申し訳ありません」

部屋に到着し、荷物を下ろしたところで、小学校高学年くらいの少女がお盆を提げて入ってきた。
 「お茶どうぞ」
 「わあ、ありがとう。 お手伝いしてるの?」
 「お母さんの代わりです」
幼いながらにしっかりした少女は、きちんとした答えをしたが、子犬に目を留めると、年相応にはしゃいだ声を上げた。
 「わあっ、かわいいー!! 触ってもいい?」
シバくんの前にかがみこみ、頭を撫でると、子犬もサービスのつもりなのか、尻尾を振りながら、彼女の手を舐めてみせた。
子犬は割と誰にでも愛想がいいが、彼女とは波長があったようで、嬉しそうに遊んでいる。
 「こら、ゆかり、お客様が休めないだろ」
オーナーが注意をすると、素直に子犬を離したが、花梨は彼女の名前に目を丸くした。
 「ゆかりちゃん?」
今は時空の彼方にいる、やはり年よりもしっかり者だった姫のことを思い出す。

 「では、ごゆっくり」
父娘は笑顔とともに礼をすると、部屋を後にした。



夕食はダイニングで、オーナーの手料理が振る舞われた。
笑顔の綺麗な奥方が給仕をし、ゆかりもちょこちょこと手伝っている。
 「ご到着のときにご挨拶しませんで、申し訳ありませんでした」
前菜の皿を出しながら、奥方が不手際を詫びる。
 「倒れたって方は大丈夫だったんですか?」
 「ええ、衰弱してるけど、命には別条ないそうで・・・。でも、お出かけになる前はお元気だったので、びっくりして」
 「なにか事故でも?」
 「お怪我なさってたりはしなかったのですけど、お帰りになって玄関を入られた途端に倒れられて・・・」
原因はなんであれ、泊り客が救急車で運ばれたということで、オーナーと奥方は困惑しているようであった。
 「でも、最近多いんですよね・・・。 いきなり倒れて運ばれるってのが・・・」
ぽつりと奥方は漏らしたが、そのときパンを運んできたオーナーに目でたしなめられて、曖昧に笑って厨房へ引っ込んだ。

花梨は心配げに、泰継は何ごとか考えるように、眉をしかめたが、その場では和やかに夕食が進んでいった。



翌朝、一行は涼しい空気を満喫し、散策していた。
子犬も樹の精霊である白耀も、やはり緑の中には馴染んで見える。
 「花梨様、湿原は足元があぶのうございますので、お気を付けください」
注意しながら、手をさしのべる精霊に先んじて、泰継が花梨の手を取った。
 「花梨を守るのは私の役目だ」
 「これは失礼を」
白耀は頭を下げたが、顔は面白そうに笑っている。

子犬は鳥の形をした白い花を熱心に鼻先でつついていた。
 「わあ、綺麗な花」
 「鷺草だな」
 「飛んでるみたいに見えますね」
子犬がつつくたびに、ふわふわと揺れる花は、風にのって飛んでいく鳥そのもののように映る。
緑の中に点々と咲く白い花は、鳥の軌跡のように続いていた。
花を追うように目をやると、道の向こうでゆかりが手を振っている。
どこかに行くところのようで、手を振りかえすと、ひとつ会釈して道を急いでいった。



 「わあ、冷たい!」
川岸で流れに手を浸した花梨が、はしゃいだ声を上げた。
このあたりの清流は夏でも水温が低い。
子犬は鼻を突っ込んで、びっくりしたように飛びのいた。
その姿を見て、また花梨が声をたてて笑う。
子犬を抱き上げて、鼻を拭いてやるのを眺めていると、泰継の口元も綻んだ。
 「よかった、泰継さんもリラックスできてるみたいで」
泰継の表情を目にして、花梨が安心したように言う。
 「いつも、私のことばっかり気にしてくれて、泰継さん忙しいのに、今回も無理してくれたんじゃないかなあって・・・」
 「お前のためならば、無理と思うことなど何もない」
 「そういうところが、気が引けるんですけど・・・でも、ありがとう、泰継さん」
はにかんだように笑う花梨を、泰継は引き寄せた。
 「本当に、お前が笑ってくれれば、私は満たされるのだ・・・」
花梨がそっと泰継の背を抱きしめかえす。

精霊と子犬は心得顔で明後日のほうを向いていた。




一行が高原の涼しさを満喫して宿に帰ってくると、オーナーが落ち着かない様子でうろうろしていた。
 「どうかしたんですか」
 「おかえりなさいませ。 いえ・・・」
言い淀むところへ、表から奥方が「自治会長さんが皆さんに連絡回してくださったけど、来てないって・・・」と走ってきた。
 「あの?」
 「すみません、うちの娘が朝から見えなくて・・・」
外は既に日が暮れかけている。
 「お昼に姿が見えないのに気がついたんですけど、どこかで遊んでいるのかと・・・。
でも、全然戻ってこないので・・・」

地元民らしき人々が、明りを用意してやってきて、オーナー夫妻と打ち合わせを始めた。
 「向こうの川のほうまで、辿ってみるか」
 「じゃあ、俺らは反対の林のほうへ」

 「あのっ、私たち、ゆかりちゃんを見かけました!」
花梨が口を出すと、皆がざわめいたが、昼前に湿原を横切る散策路だと知ると、失望の声が上がった。
 「しかし、昼前か・・・。その近辺にそんな危険なところがあったかなあ」
 「そのあと、移動したかもしれんが」 
 「とにかく、当初の予定通り、川のほうと、林のほうに分かれよう」

ペンションの庭を出ていく彼らを遠巻きに見ていた花梨は、泰継を見上げる。
 「私たちも協力できませんか?」
泰継も、そう言い出すであろう花梨のことはわかっていたようで、少し眉をしかめつつも、
 「私から離れずにいろ」
と答えた。

花梨と泰継は、地元の人々が、がやがやと探しに出るのと少し離れて、ゆかりを見かけた散策路に入っていった。
 「シバくん、お願いね!」
花梨が真剣な顔で、子犬の目を見つめ、そっと地に降ろす。
 「ゆかりちゃんの匂いする?」
子犬は首を傾げていたが、とことこと歩き出した。

泰継は、式符を取り出すと、宙に投げ上げ、短く呪いを唱えた。
呪いに従って、紙は白い鳥の姿に変じる。
 「幼い娘を探せ」
泰継が命じると、鳥はすいと暮れた空に向かい飛び立った。

 「では、私は木々たちに聞いてみましょう」
白耀が頭を下げると、すっと姿を消した。
 「今は目覚めている精霊の宿る木も少なく、はっきりした言葉を発する者は少ないかもしれないが・・・」

泰継と花梨は、そのまま匂いを嗅ぎながら歩いていく子犬を追って、道を辿っていく。
 「でも、この散策路って、ぐるっと湿原を回ってますよね」
 「そうだ。 ずっと辿れば、元の場所へ戻る。 ゆかりはどこかで道を逸れたはず」

夏の長い日も沈んで、辺りは闇が満ちてきている。
二人と一匹は、周りを見回しながら、足を速めた。










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